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廣嶺神社

支部名 小浜市遠敷郡支部
神社名 廣嶺神社
境内社名 天満神社、白太夫社、疫神社、稲荷神社
旧社格 県社
郵便番号
鎮座地 福井県小浜市千種2-3-27
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典
宮司 佐波近典
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 素盞嗚尊
稲田姫命
天穂日命
正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
天津彦根命
浩津彦根命
熊野櫲樟日命
田心姫命
浩津姫命
市杵島姫命

由 緒

 廣嶺神社由緒(昭和23年)に「貞観2年(860)播磨国廣峯から大中臣佐波近重が勧請した。
明治以前は天王社・或は、祇園社と尊称していた。
明治4年2月に竹原神社と届出たが、明治8年12月10日に廣嶺神社と改称した。
その後、昭和3年7月5日に廣嶺神社と変更された。
明治8年8月の小浜神社の創立以前は、小浜城下の地主神として国主・藩主・藩士・氏子一般の崇敬を受けて来られた。
しかし、以後、現在まで西津地区一円の産土神として奉祀している。
維持について、太田文に天王宮6反60歩。
若狭守護代記に応永19年(1408)7月11日に前守護一色兵部少輔義貫が鳥居を造立。
若狭志に国主浅野長吉領国の時神殿を建立。
その後、代々の国主、禁制状を附し、酒井公若狭に封ぜられて寛永20年(1643)8月に社殿を修補。
正保2年(1645)大鳥居を改造される等代々崇敬の誠を捧げられた。
御祭禮には三基の神輿渡御の行列に木造りの鎌鉾と獅子が加わって巡幸し、本殿に還幸の後、上竹原、下竹原の人々が鎌鉾を奪い取る行事があって、豊漁か豊作かを占ったと伝えている。
後明治8年12月10日に小浜県から郷社に列せられた。
明治41年4月26日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。
昭和17年3月20日に福井県から県社に列せられた。」と記してある。
なお、昭和24年11月30日に境内地(官有地 594坪)の譲与を受けた。
昭和28年9月3日に宗教法人法に従って、宗教法人設立の登記を行った。
 前記の3基の神輿とは、四角造りの神輿に牛頭天王、四角造りの神輿に八王子、八角造りの神輿に稲田姫(尼御前)をお遷しし、6月7日に、稲田姫、八王子、牛頭天王の順に出御され、14日の還御の時は、牛頭天王、八王子、稲田姫という順になる。
また、御旅所は、青井村に至り築山に設け、船にて帰座し給うを常としたが、或年 風浪烈しく船を破損したので、後は、府中に設けて陸路を経て帰座し給うとあるが、時には、漁人が船に御輿を奉移して府中に至り、神楽を供えたとも若狭郡縣誌に記してある。

境内社 天満神社の由緒は、社伝・若狭郡縣志などに「天王社(広嶺神社)の南にあって菅原道真公をお祀りして、雲月宮と尊称した。
延喜4年(904)2月13日に霊光が久須夜嶽から千種の森に飛び来て止まった。
その時の天王社の祠官(神職)第二世大中臣近俊に霊光の御本体は菅神であると霊示されたので帝都に上り奏上すると勅命を賜わった故に雲浜に社殿を建てて奉斎した。
霊光が雲の端に月が出るのに似ているから雲月宮と名付けた。
また、国主京極忠敬公が社殿を造営、鳥居(寛永元年―1624―6月)を建立。
酒井忠勝公が社殿(正保2年―1645―)を修補。
酒井忠直公が鳥居(万治2年―1659―)を改造。
酒井忠囿公が鳥居(元禄3年―1690―)を造営。
浅野長吉公羽柴勝俊公京極高次公、忠高公等が社領10石寄進され、酒井忠勝公、忠直公、忠囿公も神領を奉納された」という。
御祭神の神徳を称えて紅梅講を結び尊崇の念いよいよ高まった。
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