由 緒
社伝によると、当社の勧請は、男大迹皇子(継体天皇)が御潜龍の折、当地の水害を煩慮なされて水路をお穿ちになり、九頭竜・足羽・日野の三川を開かれた。
このとき、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀されて、岡太神社と号して祈誓し賜うたという。
即ち、延喜式神名帳に記載の今立郡十四社の一にして所謂式内の社である。
祭礼「鳳来祀」は、継体天皇を樟葉宮に奉迎した日が、1月31日であるとして、例年神輿を奉じて市中を巡行している。
明治41年4月神饌幣帛料供進神社に指定された。
また明治43年3月に、6社(貴船・天神社・金刀比羅神社・秋葉神社・八幡神社・稲荷神社)を大正5年1月16日に境内神社(彦主人王宮)を合祀した。
当社の祭礼「莱祀(オライシ)」は、王位来祀の義と伝えられ、藩政時代には国主より代官4名が警衛として派遣された。
また里正村総代が、礼服で供奉したという。
神祇官領よりも、「定/一神事也 蓑笠不可着用事/但不法之輩強而相咎不可有夕觸穢有者也/月 日」という公達があって制札を建て、公用・私用の者の通行を止め、蓑笠着用の者の往来を禁した。
この祭礼の日には、男女を問わず、他町村に縁付きたる者が必ず帰来するのを常としたという。
また粟田部の礼日として親族知人などの訪問が極めて多く、市中大いに雑沓したという。
莱祀は、天平勝宝年中に再興してから天正元年まで退転せず、その後、乱世の世の為に暫く中絶したが、同17年より又執行したと伝えている。
以下特殊神事迹王の餅について記す。
「迹王の餅」は、毎年9月13日(現在は、10月13日)未明に行われる神事で、数十の大半桶に盛った餅を積んで献る。
これは、男大迹皇子(継体天皇)が、潜龍時代に、郷民を愛育撫恤し給うたというその厚徳に酬い奉らんとして餅を搗いて皇子に奉ったところ皇子もまた、餅を搗いて郷民を賑い給うたという故事によるものという。
さて、村内に男児が出生すれば、迹王の子と称して迹王宮の名簿に記載する。
成人になると、筆頭の者から32人(迹王方16人・宮方16人に分れる。)が選ばれ、迹王若者と称して、当年の迹王の餅を献る当役となる。
当日捧げられた餅は迹王の子たる者に頒たれる(迹王方の名簿にあるものは餅9個を、迹王方・宮方の名簿につく者は、餅18個づつを配与される。)
次に、当社にゆかりのある史跡に、「皇子の池」「皇子の森」がある。
前者は、安閑・宣化天皇の御産湯に使用した池と伝え、後者両天皇の御降誕の地と伝える。
また、男大迹皇子の妃、佐山媛の古跡や、皇子に近侍したという帝々左衛門居趾などが知られる。
また皇子御手植の桜と伝えられる花筐桜(薄墨桜)は文化財に指定され著名である。
明治44年2月に設けられた供御田も存在した。