由 緒
『神社明細帳』に「由緒創立不詳、式内にして、又若狭国神階記に正五位耳明神とあり、社号 嘉禄2年(1226)以降28所宮ト称せし所、明治2年小濱藩廳より弥美神社ト復称せらる。同五年に郷社に列せらる。明治41年4月26日神饌幣帛供進神社に指定。大正14年1月8日に県社に列せられ、同年1月21日神饌幣帛供進の神社に指定済」と記している。
御祭神の室毘古王は、第九代開化天皇の皇子の日子坐王と沙本之闇見戸売との王で、若狭之耳の祖なりと古事記にみえ、亦、『神社私考』に「古この耳地を領れる耳別の氏人ありて、室毘古を祖神として祀れるにやあらむ」と延べている。
28所宮について、『弥美神社記』に「文武天皇の御宇大宝二年(702)壬寅春、日月両輪を始め奉り、天照大神国家守護の霊社二十八所の名影を、白幡に秘して耳の川辺帯て、深山の空地に天降らせ給い(中略)御敷地を宮代村と名付け候なり。伊勢大神宮、八幡、春日、丹生、平野、松尾、加茂、稲荷、大原、石上、大和、住吉、龍田、広瀬、梅宮、吉田、広田、祇園、天満、気比、熊野、金峯、白山、熱田、十禅師、上下、日吉、三輪大明神」と28所の神名が挙げられてある。由緒について、『神社私考』は、「(前略)いにしへ弥美神社、此処に在て衰へ給ひたりしを嘉禄(1225~27)に再興して今の社地に移し奉りて二十八所の神と称し、其旧趾にも小社を建て、地主の神と称へるなるべし」と推定している。弥美神社は、耳庄の総鎮守で、古くから領家、国主等の崇敬が篤く、社殿の改築補修、社領の寄進などがあった。例祭には、王ノ舞、獅子舞、浦安舞、乙女舞、ヨボの木の御幣などが奉納される。
「ミミ」の呼称とその意味の存する古称について、『福井県史(通史編1)』に、藤原京(649~710)跡出土木簡に「三方評耳五十戸」「三方評耳里」「美々里」と記したものがある。この「耳里」(耳五十戸・美々里)の里名は、平城宮(710-784)跡出土木簡に「若狭国三方郡耳郷中村里」や「三方郡弥美郷中村里」とかみえるように律令制下の郷里制においても郷名としてひきつづき認められていた。現在の美浜町耳川流域一帯に比定され、耳川東岸には式内社の弥美神社があり、北陸道の弥美駅も、この付近と考えられている。律令制下の郷名としては、ミミというのは若狭のものが全国唯一である。
神代巻の神名に忍穂耳尊・手研耳・神八井耳尊。第2代綏靖天皇の諡号神渟名川耳尊。また、王族の坂田耳子郎・豊聰耳皇子などに用いられているが、上蜘蛛大耳や耳垂・和泉陶津耳・但馬の前津耳・但馬の大耳・莵狭の耳垂などにみられるように、「耳」は姓の制より古くから人名や地名に付し、その他の豪族への敬称であったとされた。即ち、これらの地は、元来「ミカタのミミ」が居たところで、遠敷郡に式内社の若狭比古神社の祭神「比古」に劣らぬ古称で、耳川や弥美神社の呼び名も、その他名から生じたものとみられる。
若狭は、ヤマト朝廷の「御食国」として早くから聖塩を貢上しただけに、その首長と配下の民衆には特別の配慮をしたものと思われる。と述べている。