由 緒
朝倉英林(孝景)が文明元年(1469)八月志原の戦に勝利を得て兵威は国中に振ったので、将軍義政公より文明三年五月越前国を賜わり越前国守護に任ぜられ、阪南群黒丸城主より足羽南郡一乗谷に築城して移住した。
その際将軍家の祖神宇佐八幡宮の御分霊を一乗谷城戸の内へ勧請し社殿を建立して祀り神田等寄進し、臣真柄敏丸を別当職に定めた。
爾来朝倉家代々の信仰と崇敬を受けてきた。
天正元年(1573)織田信長の攻略により朝倉義景は大野賢松寺に於て自害し落城。
慶長六年(1601)初入国し初代藩主松平秀康は領内神社の由緒御調の上、北之庄に遷座社地を寄附され免除朱印地となり旧町内を八幡と称した。
慶長十九年十二月二代藩主忠直卿は大阪出陣の際武運長久・戦勝祈願に国老秋野主馬を代参させ、長船の名刀及び鳥目(金銭)を奉納された。
元和元年(1615)正月祈祷守札を陣中へ納めたので松平正五郎直政より謝状を受ける。
寛永元年(1624)七月伊豫守松平忠昌卿越前家を相続する為越後国高田城より入封。
同年八月十五日御参詣有り、藩祖の思召ありたる趣を以て神領十石を三ツ橋村の高の内朱印地として寄進。
此の段別六反七畝八歩寛永二年七月渡辺当神社神主に仰付けられる。
寛永五年の大火で社殿は火災に罹ったが境内周囲は人家密集の為将来を慮り七代藩主松平吉品公は元社地八幡町より三・四町川下の字御舟町の地に新な社地五百四十余坪を寄進の上社殿を再建した。
更に造営御遷座の際神器等種々を奉納し、旧社地四百有余坪は元八幡と称し明治七年まで境外所有地であった。
代々藩の崇敬厚く安永八年(1779)三月藩主松平越前守重富卿より神号、葵紋付幕、提灯等寄附。
文政元年(1818)七月木田地方山奥横町より出火し社殿類焼した。
再建の際白銀十枚を寄進。
其の他松平家代々の寄進物数品がある。
天保五年(1834)松平家より御神鏡寄進。
天保六年十月上旬江戸相撲阿武松緑之助土俵入りの際の金太刀造一振奉納(阿波国主より拝領の由、長さ三尺余上總守藤原栄道の作)慶長二年(1599)三月家老松平鴎客本社へ参詣の際村正名槍奉納あり。
明治四年十一月足羽県に於て神明神社に合併。
同八年元敦賀県に於て神明神社に合併。
旧社地は民有地と成った為やむを得ず照手下町百八番地を買入れ其の筋の許可を得て社殿再建。
同三十五年三月福井市大火に類焼した。
社地狭隘不潔の事から現在地への移転を計画し同三十七年五月三日福井県の許可を得て仮社殿を造営し遷座。
同三十九年十二月二十五日本殿及拝殿を新築し遷座。
同四十九年九月十七日照手下町の倉稲魂命を祀る無格社稲荷神社を合併。
大正四年十一月七日神饌幣帛料供進神社に指定。
昭和二十年七月十九日米軍の福井空襲により本社・三境内社及び森厳な樹木は焼失。
社標一基を残し倒壊したが、御神体と社宝掛軸二点は明里八幡神社に奉遷し難を免れた。
同二十一年五月社名変更。
同二十二年四月仮殿を建築し遷座され、同二十三年六月二十八日の福井大震災にも仮殿・社標・社務所は倒壊を免れた。
同三十四年三月社殿を起工し十月竣工し遷座。
同五十三年四月鉄骨二階建の氏子会館(参集殿)新築。
同五十七年十月木造二階建に社務所職員住宅改築。