由 緒
創立年月不詳。
天正3年9月(1575)柴田勝家公が越前に入国された当時一乗谷の朝倉氏が2年前に滅び足羽山北側が栄えていた。
勝家公は織田信長の北陸における本拠地として足羽川を天然の濠にし北側に点在する民家の田畑地帯に九層の天守閣を持つ北ノ庄城を築き越前国の中心地として都市計画を立て一乗谷からも民家・寺院を移転させるなど城下町を形成する一方、翌4年国中に政令を出して寺社に刀狩を命じ一向一揆の蓄蔵している鎧甲銃矢鞍を悉く城に集め、不用品は農具を作って住民に与えその残りを鎖にした。
天正5年足羽川に半石半木の架ヶ別橋という福井大橋をかけ、同6年九頭龍川の渡舟に替えて48艘の舟を鎖で連結した森田舟橋をつくり交易の便を計った。
因にこの舟橋は明治10年木橋となり不用の鎖は吉田郡小舟渡の渡舟を舟橋にして再利用。
民生の安定と産業振興の為農地を検地として租税の基礎を定め、特定地域の商人に租税を免じ「楽市楽座」を栄させた。
奉書紬・白山紬の元祖となる機業を振興し、農家の愛護・主要道路の開通・架橋等数多くの業績に領民は盛徳を謳歌した。
同11年(1583)4月21日賎ヶ岳の戦に敗れた勝家公は同月24日城に火を放ちお市の方と共に自害した。
城下の人々は遺徳を偲び御霊を慰めようとひそかに報賽の小祠を建てて祀った。
勝家公辞世に「夏の夜の夢二はかなきあとの名を 雲井にあげよ山時鳥」お市の方「さらぬだにうちぬる程も夏の夜の夢路をさそう時鳥かな」慶長5年(1600)結城秀康が越前藩主となり北ノ庄村附近は福井藩士の屋敷となったが、明治6年祠は神社格に列せられ氏子・崇敬者を有するようになった。
往時より橋本佐内等名士の参拝も多く柴田神社碑の額字は松平春嶽・神社称号の額字は由利公正の書であったが昭和20年の戦災で焼失。
福井市創生の地北ノ庄は戦国武将にふさわしい遺構で蒼苔古色を帯び老樹繁茂して社を覆っていたが大正7年5月福井城南の大火で社殿神苑共に類焼同11年本殿竣工。
昭和3年昭和天皇御即位に際し勝家公の偉徳を偲ばれて従三位に贈位。
同20年7月19日アメリカ空軍の爆撃で市街は潰滅し社殿焼失。
同23年6月28日の福井大地震で再建した社殿及び境内城趾も崩壊。
同37年幾多の苦難をこえて社殿再建。
同38年10月公の380年祭と社殿竣工祭を斎行。
同42年4月公の銅像を天守閣跡に建立。
同57年4月24日400年祭が勝家公血縁者及び有志氏子崇敬者を招き盛大に斎行。
末社の稲荷社は天正3年勝家公が北ノ庄城築城に際し鎮護の神として伏見稲荷大社より勧請し氏神とした。
又城下町の鎮守氏神として町民より尊崇されてきた。
柴田神社本殿に合祀されていたが昭和53年10月本殿横に別殿建立。
衣食住の神と仰ぐ稲荷大明神の勧請は福井市で最も古く、商売繁昌・除災招福と崇敬されている。
境内に「北ノ庄の井戸」遺構がある。
平成4年より境内城拡張の整備が進められ、史跡としても指定観光の一つであるが、現在の福井市の基礎をつくり創生開発の神、更に人民求愛の大恩人の神としての御神徳は福井市の発展と共に益々降昌されている。