由 緒
『延喜式神名帳』に所載の官社に比定されているが創立年代不詳。社伝に「第十二代景行天皇の御世に磐鹿六雁命(膳臣遠祖)が若狭国造に任命される以前の創建」という。
延宝三年(1675)の『由緒書上扣(ひかえ)』に「当社は、もと現在地から東北へ千五百米ほど離れた薗部村の水深い田に囲まれた小高い薗池の森に祀られていた御社で、参詣に不便だったので、高浜村八穴山の牛頭天王社(現境内社廣峯神社)傍に社殿を建て奉遷」とある。八穴山は、足利将軍が再三来遊して風光を愛でたと「若狭国税所今富名領主代々次第」に見えることから景勝の地であったらしい。
天正年間(1573~92)に逸見駿河守昌経が八穴山築城(高浜城)に際し、碎導山城の裾の現在地に遷祀した。後に高浜城主木下惟俊が社殿を再建。高浜城主坂井忠勝が本殿の補修及び拝殿を建立された。以後、承応2年(1653)、安永6年(1777)と屢々、遷宮が行われ、社頭も大いに賑った。また、天保4年(1833)6月に高浜村庄屋善太夫ら8名連署をもって神額掛替を願い出て、「碎導大明神」を改めて「佐伎治社」とした。中世の社領は、「摂関家二条家より立石荘のうち七町七反の寄進があったが、太閤検地によって失った」という。
明治8年4月に県社に列格。同41年4月26日に神饌幣帛料供進神社に指定された。
祭祀は荘厳に執行されているが、巳年と亥年の6年毎の陰暦6月卯の日から7日間、殊に、酉の日を「本日」として厳重に斎戒して、式年遷幸祭が行なわれている。また、25年ごとに鳥居洗式が行われている。