由 緒
『気比宮社記』・『敦賀志稿』等に公文名村天神社とあり、往古より「天神様」と尊称し遠近より崇敬者が多く郷土の名社であった。
又「当社の縁起を徴するに越前国敦賀郡粟野村大字公文名は旧野坂庄粟野郷の一村にて旧社あり天満神社と号す。祭神贈太政大臣正一位菅原朝臣道眞公にて、寛和年中(985~987)の創立、後に越前守兼北陸道押領使従四位下藤原利仁公を配祀奉る。抑々当粟生野郷は殊に威福無双の利仁公の恩恵を蒙りたる土地にて今尚其の家臣の末裔に藤原姓を冠するもの三十戸あり・・・略」の記がある。
明治維新まで帯刀を免ぜられ、郷党の上に位し農村では稀な村柄であった。
古来正月17日当神社に参集して利仁公の恒例祭を斎行している。
このように当村及び当神社と利仁将軍との関係は深く尊崇も厚い。
宇治拾遺物語の利仁薯蕷粥や大日本人名辞書の解説に利仁公の記がある。
醍醐院末仙養院と称する旧神職菅井家は江戸中期まで菅原姓であったと伝える。
社伝によれば、花山天皇御宇の寛和2年(986)の鎮座と伝え、いつ頃か藤原利仁公を配祀。
利仁公は延喜(901~)の昔、此の地豪族泰豊国の女婿となり住居した。
将軍塚と称する塚は利仁将軍の供養塚であるという。
明治9年7月17日村社に加列。
同43年2間4方の社殿で前口2間4尺6寸奥行2間2尺に改築され、1間6寸に1間の拝所が新築された。
また同年の境内は703坪であった。