由 緒
社伝に「当社は、第24代仁賢天皇即位2年(5世紀末)に白烏が、先導して、南条郡南日野村清水字宮ヶ谷に鎮座された。」という。
『神社明細帳』に「勧請の年月は不詳であるけれども、袁本杼命(第26代継体天皇)が、当国に御在留の時に、大変「黄烏」を賞美されて居られました。
御巡遊の折、当社に参拝されて、暫く、御休息して居られた時に、神殿の後山から「黄烏」が「佳音」を発して、王座近くを回りながら囀ったので、命は、おおいに喜ばれて、当社を「初音ノ宮」当地を「鶯関」と名付けられた。
当社を「初音宮」と言う所以である。
往古は、代々の国司が当社を崇敬して70余町の神田を寄進し、神殿は宏壮であって、50余の社人、社家が奉仕していたという。
文治の頃(1185~89)に源義経が奥州に下向する時に、鈴木三郎を当社に参籠させて祈願のために、所持の弓矢を奉納した。
源義経の弓矢をはじめ、奉納された神宝や古文書類は、天正年間(1573~)の一向一揆の蜂起の際に兵火に罹って焼失し、数十町の神田は悉く没収されてしまった。
慶長年間(1596~)に本田富正・永見志摩守等が、当社を篤く尊信して社殿その他を修補して神域を整えた。
また、宝暦年間(1751~)に金森家が当地に封を受けて、殊に尊敬し、神供米数石を寄附し、社伝等の修理に意を用いられた。
明治9年6月に村社に列せられ、同43年3月23日に字堀ノ内鎮座の天夜神社(祭神須佐之男神)を合祀した。
同44年5月6日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。と記載してある。
尚、境内社の水神社(祭神弥都波能賣神)と疱瘡神社(祭神少彦名神)を本社に合祀した。