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神明社

支部名 南越支部
神社名 神明社
境内社名 八幡神社、春日神社、多賀神社、土宮、金刀比羅神社
旧社格 県社
郵便番号
鎮座地 福井県鯖江市水落町81-1
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典 大雷子神事
雨乞ノ神事
宮司 瓜生守幸
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 天照皇大神

由 緒

 当社の勧請は、安康天皇の御宇なりと雖も不詳。
往昔はしない下河端町東北端に当る神明山麓の湯の花に鎮座せられしが、鳥羽天皇の御宇大治4年5月15日、当国押領使(兼神領使)藤原国貞神託により、当神明宮を当地烏ケ森に遷し、社地東西300間、南北230間を寄附す。
今も下河端町には、神明山・湯の花・牛ケ頸・館跡の地名あり。
その後朝倉家より田地一段歩を寄附、豊太閤検地の際田地三段歩を寄附、慶長年中国主中納言松平秀康高50名を元和年間国主松平忠昌畑1町歩を何れも寄附せらる。
当社は明治4年までの時代には、神明宮と称せり。
口碑には慶長6年5月松平秀康公入国の際、水落の烏ケ森にさしかかるや乗馬が嘶き、物怖れをして進まず、公、不思議に感じ臣下をして偵察させたところ、森の中に立派なる神社が鎮まりますを知り、乃ち下馬して其の社殿に額き北の庄城に入りて後、侍臣を遣わして御高50石を献じて奉賽の誠を表したとある。
 石川県管下の時、皇族下馬下乗札を建設。
明治8年5月敦賀県管下のとき県社に列せられ、同14年4月福井県に於て境内へ禁政札を建設、同41年4月神饌幣帛料供進神社に指定。
同45年6月27日福井県の許可を得て、水落村観音寺に在った無格社天満神社を神明社に合祀す。
また口伝に秀康公入国の年、姫の病気平癒を祈願せるに全快したので、本殿及び瓜生神官の家(現在重要文化財)を寄進したと言う。
本殿軒の垂木木口には、「御志ろおひめさま御きしん」の金具が打たれている。

大雷子神事(神明村縣社神明社)
2月17日夕氏子一同農夫の服装をなし「穂に穂が咲いた咲いた」と高唱しつゝ、神社の境内に群集すれば、神職は豫て神前に備へある團子を入れたる麻袋2個と、霜柯の小割木を撤し、先づ小割木を群集に投じ、袋持2名2組麻袋1個宛を持ちて群集中に投ず。
衆争ひて小割木及團子を取る。團子は麻袋を指先或いは齒にて破り、一粒宛取出し、組合ふこと約1時間以上に及ぶ。
小割木は防火の守りとし、團子は瘧落しの禁厭となす。

雨乞ノ神事
境内に月形の池あり、十の池と稱す。池邊老樹鬱蒼たり。面積200有餘坪池中深き所牛神2體點座す。
古來旱魃の時は雨乞の神事あり。旱魃に困難せる村落より雨乞の請あれば、神職は神前に御䦰を乞ひて十の池掃除の日取を定め宗次をなす。3日を経て第2回の掃除をなし、又3日を経て牛引の日取とす。
掃除の日には大判二帖を青竹に挟みたる御幣2本を以て牛神の鎮座所に建て、水落、小黒區民15歳以上の男子にして無妻の者27名の内より7名を、御䦰にて定め、其者をして鼻(扌勾)と稱して牛の鼻に苧縄を通し、之に藁縄の太きものを結び繋ぎて400人以上の人夫掛聲して牽引するなり。
斯の如くすること大抵3日を出でずして降雨す。雨降れば晴天を待ちて喜雨の禮祭をなし、千燈2棚を献するものとす。

※二神事は、昭和11年福井県神社誌より復刻。
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