由 緒
日野山は御嶽山・日永嶽(雛が嶽)また越前富士とも言われて、昔から信仰の御山として尊崇されて来た。
当神社のことが歴史に見える初めは、『日本紀略』の延喜10年9月の条に、「授越前国日野名神従五位下」と見えるのを初見とする。
名神といういのは、殊にその霊験のあらたかさをもって著名な神という意である。
また、この御山のことは、長徳2年に越前守として武生の国府に赴任した父藤原為時に伴われて来た紫式部が、その歌集に、
暦に初雪降ると書きつけたる日 日に近き日野岳といふ山の雪 いと深くみやらるれば ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへると、留めている。
このように、この御山と神は古くから著名であったことが知られる。
また中世・近世においては「日野山大権現」として山岳信仰の霊場として知られた。
近世においては殊に越前藩主松平候、府中領主本多候の崇敬が篤く、社領・社殿等が寄進されている。
今日では「日野山まつり」として登山祭・鎮火祭(火まつり)・御来光祭で知られている。
なお、継体天皇が当国に潜龍し給いし時、二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)を伴って登山され、朝日を拝されてその鮮やかなことに感じ入られ、「此処こそ朝日を拝むべき山である」と仰せられたとの伝説があり、また「古代神楽」が伝わっている。