由 緒
社記その他の古記録によれば、寛弘8年(1011)3月春日大明神を勧請した。
保元年間(1156~1159)越前の10郷(本荘郷・新庄郷・兵庫郷・関ノ郷・新郷・荒井郷・王見郷・溝江郷・大口郷・細呂木郷)に10社を建立した。
当社はその中心の1社である。
応永年間(1394~1428)には、宮殿、楼閣、七堂伽藍、鐘楼を建立し隆盛を誇ったが、天正年間(1573~1592)一揆兵火のため一宇残らず焼失した。
明治4年郷社に列す。
明治40年9月に下兵庫地籍に鎮座されていた譽田別尊、櫲樟日命(2座)、伊弉册尊、天照皇大神(3座)、奥津比古命を合祀した。
大正3年神饌幣帛料供進神社に指定された。
「当社の伝承」 第66代一條院の御代、越前平野が大旱魃に苦しんでいたとき、当国の押領使斎藤民部少輔伊傳の夢枕に衣冠正しき老人が現われ「村里の用水には九頭竜の大川を堰取るべし、朕は三笠山の神なり」と宜われた。
また、川上阿伽岩の上に雌雄の白鹿が声をあげて鳴き、川口の庄まで飛行したと里人から霊夢の進言を受けたことは、邑長たちに下知し、自ら江路造成を指揮し、完成に努めた。
これにより灌水が可能となり、稲田がよく繁茂した。
この春日の大神の御神徳に報いるため、寛弘8年(1011)に兵庫の住人徳丸一男が春日大社に御供米100石を供進した。
また神慮威光を崇め奉らんと徳丸が託宣を受けて春日大明神を兵庫に勧請し祀ることとなった。