由 緒
『神社明細帳』と『福井県神社誌』には「神明社祭神天照皇大神」と記載してあるが、昭和二十二年二月二十二日公布の宗教法人令により県知事に提出した書類には「明神社祭神天照皇大神・八幡大神・火産霊神」と届出ている。
その変遷の訳は、明治四十一年越前電鉄(現在の京福電気鉄道㈱)が、福井市と大野市とを結ぶ鉄道線路敷設事業計画立案の際に、松岡駅の用地が神明社の境内にかかることになったので、種々協議の結果、町発展のため境内地を譲渡して、七面山明神堂と合祀して七面山(現在の明神山)山麓に社殿を遷すことが決せられ、明治四十二年五月二十五日、竣工遷座した。
それ以来、明神社と尊称してきたことによる。七面山(明神山)は、往昔景勝の地であり、『越前国名蹟考』の著者、井上翼章もここに登り、その景勝について「七面山八景」を詠んでいる。
神社創建にかかる由緒は、社伝に「文明三年(1471)頃に朝倉氏が、越前の守護に任ぜられた折、当地一帯の守護神として天照皇大神を毘沙門町に奉斎し、毘沙門堂(別当、真言宗宝喜院もと宝泉院)と尊称していた」という。
『神社明細帳』に「松岡村一帯を江上郷(椚村・窪村・室村の三ケ村の総称)と呼ばれていた頃(奈良期~平安期)の領主、堀尾帯刀の祈願所であった。時経て、江戸時代に松岡藩主松平中務太輔朝臣が、慶安元年(1648)に神領五石六斗と本社営繕のため山三ケ所を寄進して尊崇の誠を捧げた。後、明治維新の際、神領は上地したが、宅地、藪地、山林等は今に存在する。」と記載している。
本殿は総欅造りだが、造営の時期は不明である。
昭和四十三年四月二十八日に拝殿を改築竣工した。
境内神社河濯神社は、松岡藩主松平昌勝公着封の折、城下町の繁栄を祈り奉斎された。
享保六年(1721)の年号入りの金箔塗御神鏡や葵紋入りの三方等が納められている。毎年七月三十一日の河濯祭は、神明夏祭りとして神輿渡御、子供相撲、踊り行列などが賑やかに行われている。
境内神社稲荷神社は、一般に「玉吉稲荷」と尊称している。
養蚕の盛んだった頃に守護神として奉斎したが、今も「初午祭」には、神饌に「繭玉」を供え、崇敬者に配っている。
当社は、明治四十四年十二月二十日に本極町字本芝郷社柴神社に合併されたが形式的帳簿上の合併であって、祭祀は旧来通り「毘沙門町・台町・椚区・御徒町(現在の神明一・二・三丁目)」の氏子の奉賛によって厳粛に祭典が執行され、町々は賑った。
境内社の白山社・庚申社・秋葉社・八幡社・菅原社の祭神は、本殿に合祀し奉斎している。
社宝「養老の御牒(おちょう)」は、『松岡町誌第一篇郷土松岡(昭和二十二年発行)』によれば、宮廷御用の御鋳物師としての営業を千百年にわたり継承してきた芝原鋳物の往時の息吹きを今に伝える綸旨である。養老七年(723)の三月に今の大蔵大臣、時の御蔵民部大丞紀遠仏をして越前御鋳物師に賜った御牒が、芝原鋳物師渡辺氏に伝えられ、当社の前身、毘沙門神明宮別当宝喜院の内に保管されるようになったものである。
別名、薄墨の御綸旨と呼ばれたこの御牒はすこぶる珍重に扱われてきたが、今も菊紋付の墨塗りの筥に古色帯びた綿に包まれ、神職家で保管している。