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柴神社

支部名 吉田郡支部
神社名 柴神社
境内社名 日吉社、大國社、稲荷社、剣神社、若宮社
旧社格 郷社
郵便番号
鎮座地 福井県吉田郡永平寺町松岡春日3-2
電話番号
FAX番号
御神徳
主な祭典 柴挿神事・湯の花・御手鉾渡
宮司 豊島稜威夫
URL (なし)
e-mail (なし)
特記事項
御祭神 武甕槌命
天児屋根命
斎主命
姫大神
従四位上柴社神

由 緒

柴神社の創立について、明治の『神社明細帳』に「元正帝 養老元年鎮座なり、越前国一百二六座の内にして柴原ノ庄、第一の総社なるを以て、柴ノ神社と称す。天文度始て神職を置き第一世を占部中務と号し、二世を大貫豊後と号し、三世を松本大之進と号す。云々」と記してあり、『春日社由緒』に「天児屋根命の由来を尋ぬれば元正帝の養老元年南部太ノ朝臣安磨卿の御尊形なり。北ノ莊に御下句御逗留せし時、芝原郷に此御尊形を崇め給ふなり。」とみえる。『越前国坂井郡東大寺領莊園ならびに口分田班給復原図』には、現在の九頭竜川右岸の坂井平野の中核に柴社・神田・柴社西里等の地籍名が記されている。式内社に比定され、平安初期上柴社と下柴社に分かれ、上流左岸丘陵に従四位上柴神が祀られ、中世より春日信仰と結びついて「春日大明神」と称し、芝原郷八ケ村の鎮守として崇敬された。
正倉院文書には「豊島連が御料田を治めた」と記されるが、社伝では天文年間(1532~55)の占部中務の就任を以って社家の初代としている。
中世の社は、一向一揆の兵火によって焼失するが、天正十九年(1591)に北ノ庄に入封された堀秀治公が再興された。江戸期に芝原の地に福井分藩松平昌勝公の入封が定まり館第が鎮座地に築かれたので萬治三年(1660)に現鎮座地に社殿を造営し遷座された。旧社地は、五・六世紀の丘陵遺跡に当り、松岡古墳群の古代祭祀場とも考えられる。
宝永元年(1704)に城下繁栄のため「お渡り」が奨励されて、毎年九月の祭礼に「御手鉾渡り」が神社と御旅所との間で実施され、城下町は多いに賑った。
江戸時代の藩政下では、宝泉院(享保九年=1724=より吉祥院と改称)・青松寺が別当支配し、神仏分離まで別当職と神職(社人)が奉仕していた。社領五十石(深見・曽万布村)五人扶持・荒子一人。明治四年二月に春日社別当職の廃止によって吉祥院は福井の不動院に合併された。
明治四年十月十五日に春日神社を元の柴神社に改称すると共に郷社に列せられた。大正元年八月二十日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。
昭和二十三年六月の福井大震災に本殿・拝殿が倒壊し、神輿・手鉾などを失った。しかし戦後の困窮の中に氏子の赤誠奉賛によって昭和二十五年に本殿(間口、奥行共一間)と仮拝殿(間口三間・奥行二間)を改築し、更に、同五十二年に、「本庁のモデル神社」の指定を受け、神域が整備された。
昭和五十九年に、氏子参集館が建設された。また、三十三年に一度の「御座祭」(みくらまつり)が斎行され折に「お渡り」神事を復活して御鳳輦の巡行が実施された。以来、毎年、「お渡り」神事が行われている。
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