由 緒
由緒沿革『延喜式神名帳』に記載の「多禰神社」は当社であると言われている。
御社名について『神社明細帳』に「阪井郡山崎三ケ村字馬場 無格社 種神社」を朱筆で「明治四十一年八月十五日に改称許可 多禰神社」と訂正されている。
このことを『式内社調査報告』は「多禰」を「種」の一字で記載する例は、近世の地誌類に多く散見し、村名が、種村と呼ばれていた頃は、神社も種神社と呼ばれていたのを、古典に據って、明治四十一年に「多禰神社」と改称するようになったのであろう。と述べている。
御祭神について、『神社覈録』に「今、稲荷明神と称す。」『大日本史』に「今、種山崎村に在り、稲荷明神と称す。国税帳に云う、従一位。」『神社明細帳』に「祭神 稲倉魂命天兒屋根命(朱筆)。」と記してある。
朱筆の天兒屋根命は、大正十年に、山崎区と江添区の春日神社を合祀した記録である。
明治九年六月に村社に列せられた。
昭和十四年四月一日に福井県より神饌幣帛料を供進する神社に指定された。
境内は、奥深く、もの静かな社叢に囲まれている。
なお、昭和四十九年一月八日に丸岡町から史跡の指定を受けた「瑩山国師降誕地」の石碑は、明治三十年に境内に建立されたものである。
瑩山国師は、文永五年(1268)に越前国多禰村の観音堂に生まれ、後に、能登国の総持寺の開祖となられ常済大師と申された高僧を顕彰した石碑である。